「30代後半オカンひとり旅」は、ホームである滋賀県を基点に毎月1都道府県を旅し、40歳までに47都道府県制覇を目指すライフイベントである。仕事や家庭がある中、あえて一人旅をすることを楽しむ。2025年6月、いよいよスタートする。ここから、ひと月もサボることができない、過酷な旅がはじまる。
映えある第一都道府県に選ばれたのは「長野県」。会社を畳んだ直後の筆者、お金の余裕もない中、交通費を負担してくれるお仕事をいただいたからである。完全に便乗型である。なんとも情けない。そして有難い。
実は長野県にはこの一年で3度目の訪問となる。過去2度は伊那市や松本市を訪れているが、なんと今回も、私は松本に呼ばれた。松本づいている。
「特急しなの」。私は鉄道オタクでもなんでもないが、こういう響きが好きだ。なんだかわくわくする。その特急列車に乗れば、見たことのない景色を見られるんだろうという期待を持ってしまう。今回の旅は、長野県に行くには初めての列車旅。ひとり旅でなければ車を使ってしまいがちだが、ひとり旅はそうじゃない。列車旅は、ひとり旅の醍醐味なのである。
いつも当日予約するギリギリ仮面の私には珍しく、2週間前から切符を予約した。名古屋から松本までの指定席は、座席表を見ながら隣が空席のA席(進行方向向かって左の窓際)を取った。ちゃんと調べていないが、どうやら名古屋方面からならA席だと美しい景色が見られるらしかった。名古屋から約2時間の乗車時間である。はじめての「特急しなの」、ゆっくり木曽川を眺めながらブランチでも楽しもうと、私はほくほくしていたのである。
当日の朝、京都駅(滋賀から新幹線のぞみに乗るにはいったん京都に出る必要がある)のコンビニでパンを買い込む。志津屋のカルネとハイジのクリームチーズパン。このカルネ、オニオンスライスの香りを口からさせてしまうので人と喋る前には避けたい気持ちもあるのだが、いつも欲望に負けてしまう。しかもこの日は「京都駅限定!原了郭黒七味味」というシールが貼ってあるではないか。また負けてしまった(原了郭の黒七味は鴨鍋によく合うので我が家では常備している)。
京都から名古屋までの30分の間に飲む新幹線コーヒー、この日は「のぞみブレンド」にした。コンビニコーヒーに比べて350円とちょっとお高めなのだが、新幹線に乗る直前にホームの自販機で買える点と、こだまかひかりかのぞみか選ぶのが楽しいという点で、新幹線に乗る時はいつもこれだ。味の善し悪しはよくわからない。いつも「美味しいなあ」と思いながら啜っている。
名古屋までの車窓からは、田んぼばかりが見える。思えばこの時もA席を取った。左を見ながらの窓辺が好きなんだろう。朝8時過ぎ、田んぼと田んぼの間の細い農道を、後ろ向きに歩いているおじいちゃんがいた。列車の進行方向とは逆を向きながら、進行方向にゆっくり動いているので、一瞬脳が混乱してしまう。おじいちゃんが窓から見えなくなってから「後ろ歩き」で検索すると、どうやら健康法らしかった。普通に歩くよりもエネルギー消費が多いとか、膝にいいとか、認知機能の向上にもいいらしい。へえ~である。
そうこうしてるうちに「のぞみブレンド」も底をつき、名古屋への到着を告げるカタコトのアナウンスが聞こえた。志津屋のパンにはまだ口をつけていない。なんたって、「特急しなの」での優雅なブランチを楽しむためのアイテムだからね。名古屋駅で下車し指定のホームへ向かうと、もう「特急しなの」は扉を開けて私を待っていた。名古屋始発だ。意気揚々と乗り込む。2号車12番A席、フットレスト付きの座席は思ったより狭いが、スーツケースも横に置けば大丈夫だろう。隣も空席。発車とともにカルネを頬張る自分を想像して、もう私はこの列車旅の勝ちを確信していた。
鼻歌をかます私の横に謎の影が現れたのは、発車2分前だった。おじさんだ。知らないおじさんだ。知らないおじさんが私の頭上にある荷物棚に大きなリュックを上げた影だ。まさか。私がその影を見上げると、おじさんがほほ笑んでいた。私は急いでフットレストを畳み、スーツケースを自分と座席の間にねじ込んだ。狭い。足が痛い。おじさんが隣の席に座った。……

